嫁聴け(1998-2016)

音を触媒にした連鎖と波形を、言葉を道具に焼いたもの

FACES PLACES / globe (1997)

次の時代が近づいているのは、時間が早く進んでいるからじゃない。人が勝手に作った波が押し寄せるだけ押し寄せて、呑み込まれているのを後回しの責任転嫁で喜んでいる。ポリシーのない陸サーファーとどこが違う? わずかしかないと思いこむ時間の残高を、急かされるようにして使いきってしまおうと、意味もなく躍起になっている奴が躍ってる。そうやって考えれば考えるほどに、全てが大道具の油絵に思えてくる。

「疲れた」 のメモなんて、一体誰が作った物語をなぞっているのだろう。人に溺れて自分が一体化して、そして突然気付く。時間を追っても空洞しかない。目が覚めると散らかったままのテーブルの上に、空になっていない煙草の箱が転がっている。そして何もなかったような顔をして、 3 日後にまた帰ってくる。 「親の顔も見飽きた」 なんて言いながら。自分の顔を見つめようともしないくせに。箱から時間をつぶし、部屋を煙で満たそうとする。うまそうな表情一つ浮かべもしないで、真っ白になるはずもない、この狭い部屋を埋め、何かの代わりにしようとしている。

疑問が確信にかわれば空想の余裕もなくなる。なんて判りやすい構図だろう。やる事といったら、箱を詰めて行くことだけ。その一つ一つの作業も流しちゃいけない。こなさなくては。組み立て、整え、詰めこみ、外装が乱れれば交換して、積まれない積み木は崩しようもない。圧迫されるはずもないのに背中も胸も押されている。決してつまらないわけでもなく、楽しんでクリアしている。車のスピードだろうと歩く速さだろうと、必ず限界がある。それでも次が見えることにはつながらないはずだ。なのにそれすらも確信してしまった。疑う楽しみも失せてしまった。あとはただ、呑まれるままに呑まれて流してくれればいい。言葉を発する気力も失せようとしている。喋ることに疲れを感じたなら、誰と何をすればいい。黙々と、だた黙々と、突き動かされるような本能もなく、欲が立ち上がろうともしない。鏡を見ることすらおっくうになった。のっそりと起きあがった自分の体がどうなっているのかも知らない。まだ昨夜の勢いのまま強張り続けているのか。

結局のところ、時間を楽しむにしても、次の映像が見えてしまえばただそれに従うだけ。分岐点もなく乗り続けるトランスポート。なぜあの日の僕は左に行くと言い、あの日の人は右に行くと言ったのか。この道は見える筋、あの道はブラインドのコーナーだったのか。道の残り時間まもない。あとは何をして見つければいい。また同じメモを読み返して、同じゲームを繰り返すだけなんだろうか。ゲームといえるほどにこの時間は安上がりで、解析できないほど複雑に作られている。先があるなら目の前に。またそれに従って動いてゆく。攻略本だらけの多面張りのミラールームは、何もせずとも全てを明らかにしてくれる。明日もまたこの部屋で、ただひたすら。