嫁聴け(1998-2016)

音を触媒にした連鎖と波形を、言葉を道具に焼いたもの

幸せについて本気出して考えてみた / ポルノグラフィティ (2002)

そりゃ人間だもの、気が滅入ることだってあるさ。日本人なんだし、年がら年中高気圧というわけにはいかないよ。モンスーンとかいうヤツに日々左右されながら、のらくらのらくらふらりゆらりと等圧線の姿を変えるがごとくってやつだ。

天気がいいという理由だけで気分の良さが呑気に続いていくなら、ストレスなんてものには無縁。でもたまにはくしゃくしゃにした紙をごみ箱に投げつけて、舌打ちの一つや二つ、トランスミッターも真っ青のハイパワーで放出したっていいわけじゃん。

問題は、復活劇の演出をいかにして芝居じみた物から遠ざけてあげられるかであって、早い話が黙ってここに座ってさえいれば、停滞前線だって勝手に逃げていってくれるのだ。好んで追いかけていく必要なんてない!

幸せというのはそういうことで、一つところに腰を落ち着けていられることのなんと素晴らしいことか。雲を追いかけていこうなどと考えてしまうから足下をすくわれるのであって、動かしようのない根を張り出して、たまに人間様をつまずかせて楽しませるような大木になって定点観測するくらいの度量で、ただ風を受けてのんびり立っていればいいのだ。

その当然普遍の答えを出すまでに費やした時間も感情も快も不快も、もったいないもったいないとついつい唱えてしまうのは、もとはといえば今の今まで何度も移植を試みようとしてしまったからなのだ。土さえ見つけてしまえば、なに、あとは少しのことには目をつぶって、のんびり水を吸い上げていればいいのだ。ここにいる限りは雨に飢えることもないし、光に飢えることもない。

時に、自分にとっての非現実という仮想遊びに興じて、あり得ない幸せについて考えてみるのは悪くない。むしろ面白い。でも、幸せについて本気出して考えてみようというのなら、まずもって先に根ありきなんだ。

ということで、紙くずをほうり投げたごみ箱を片づけて、今日もまっすぐ家に帰るのだ。いつもと同じ道という退屈と贅沢を秤に掛けて、一昨日も昨日も今日も明日も明後日も同じ中にある金の種を探していくのだ。レートがなくたっていいじゃない。換金できなくたっていいじゃない。なにより自分の財産で、それこそが自分にとっての幸せなんだと思えばそれでいいじゃない。